MAMEBOOKS blog

 こんにちは。2010年から「移動式古本屋」として活動しています。
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    考えごとメモ「わたしたちはわたしたち自身をどこまで許容できるか / 罪を憎んで人を憎まず / この社会でともに」
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      「彼は一度も人に愛されたことがない人なのだろう」という「声」を見ました。

      東京の地下鉄構内で、ベビーカーに乗ったこどもに対し男性が暴力をふるうという事件のあったその日、わたしはそれを見ました。ツイートだったかもしれません。わたしはなんだか嫌な気持ちがしました。その「声」に共感できないというだけでなく、嫌な想いに触れた気がしたのです。

      前提として。暴力を働いた男性の行為は認められないものです。非人道的で、なんとも狭量な行為だと思います。それ相応の罰を受けるべきと考えます。そしてまた、被害にあわれたこどもとそのお母さんが感じられた恐怖を思うと、なんとも胸が詰まります。(想像の域を出ませんが、)もしそれがわたしの妻と子であったら…と巡らすだけで、言葉にならない想いが胸に生まれます。

      そうではあるとしても。

      誰かの環境、生い立ち、境遇を詮索することを、あまり気持ちの良いものと思えないときがわたしにはあります。人は環境を選べます。そしてまた、人は環境を選べません。もし仮に、「彼は一度も人に愛されたことがない人なのだろう」という想像(妄想)が「真」だったとして、それは彼のせいなのでしょうか。彼の「非」なのでしょうか。(飛躍と言われてしまうかもしれませんが)突き詰めていけば、わたしは、それは「社会」のせいだろうと思うに至ります。

      もし仮に「彼は一度も人に愛されたことがない人なのだろう」という想像(妄想)が「真」だとしたら、わたしたちに出来ること(出来たこと)はなんで(あったの)しょうか。彼を「かわいそうな人」として切り捨てることでしょうか。そうではないだろう、とわたしは思うのです。

      もし仮に「彼は一度も人に愛されたことがない人なのだろう」という想像(妄想)が「真」だとしたら、わたしたちには、彼を抱き締めることこそが必要だったのではないでしょうか。この考えは、あなたに同意してもらえないものかもしれません。「きれいごと」と言われてしまうかもしれません。

      くりかえしになりますが、わたしは罪を憎みます。彼がしたとされる行為は犯罪で、厳しく罰せられるべきものです。わたしたちの社会では、そのために法があります。けれども、わたしはわたしの「希望」として、なるべくならば「人」を憎みたくありません。


      少し迂回します。
      ある想いが、このところむくむくと胸のなかで育っています。それはこのようなものです。

      《話して「わかり合う」ということは、「手を繋いで歩く」だけが正解ではないと思います。互いの存在を認めたうえで、少し離れ、距離をとってそれぞれに歩く。それも「わかり合い」だと思っています。》


      もう少し遠回りします。

      2011年3月11日からの日々で、わたしたちはいくつものトピックに向き合ってきました。好む/好まざるとに関係なく、向き合わねばならない瞬間がそれぞれにあったことと思います。それはたとえば、原発、放射能、再稼働反対、ヘイトスピーチ、従軍慰安婦、安倍政権、そして安保法制などなど。

      それぞれのYesとNo。本当は「二分」ではなく、100人いれば「100分」あるはずなのに、わたしたちはその都度「二分」され、あるいは、二分しているような錯覚を抱いてきたように思います。そして、自分と「同じでない」意見を「正しくない」と「判断」し、遠ざけ、拒否してしまったことも多かったように思います。

      たとえば安倍首相のような態度ではなく、わたしたちは、どうあれ、それがたとえ自分の考えと違ったとしても、(自らの「声」と同じものとしての)「小さき声」に耳を傾け、それが「ある」ことを知り、そしてそれらと「遠い距離間があったとしても」「一緒に生きている」ことを感じる必要があるように、わたしは思うのです。


      くりかえします。

      暴力を働いた男性。その行為は認められないものです。非人道的で、なんとも狭量な行為だと思います。彼がなぜそれをしたのか、わたしにはわかりません。けれども、わたしたちが暮すこの社会に、少ない数だとしてもそうした人がいるという事実は、認めなくてはいけないと思うのです。

      行為や罪は憎む。しかしながら、彼の出自や生活や環境を責めることは、わたしたちの社会の一部を責めることと同義になるのではないでしょうか。言うまでもなく、わたしたちの社会はわたしたち自身が作っているものです。「わたしたち自身」には、どんなに思想が相容れない人でさえ含まれているし、含まれなくてはなりません。

      「彼は一度も人に愛されたことがない人なのだろう」と詮索することは自由です。わたしはそれを好みませんが、もしそう思うのならば、そこからさらに進みたいとわたしは思います。「なぜ社会は、一度たりとも彼が愛される機会を作り得なかったのか」「なぜわたしたちは、彼を一度も抱き締められなかったのか」。


      2015年。わたしはここでもう一度「他者」を意識したいと思います。他者がすぐ隣に「居る」こと。

      満員電車で隣合わせになりなぜだか嫌悪を抱いてしまう人、深夜にうるさくする上の階の住人、曜日が守られず荒れてしまったゴミ出し場、自分には解らぬ信仰や政治思想を持った人。

      ウェブ上で公然と人に「死ね」という人、安保法制に「賛成」の人、「 デモになんか行ったってなにも変わらない」とあえて口にする人。

      それらの「他者」が、この社会の同じメンバーであること。様々な領域で、自分と異なる「他者」が、わたしやあなたのすぐ隣で息をしていること。そして。その誰もが、わたしやあなたと等しく、この社会のメンバーであること。

      今だからこそ、もう一度噛み締めたいとわたしは思うのです。


      | 日記 | 21:48 | comments(0) | - |
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